ニつ目の壷の碑

 

秋月瑞彦(多賀城市)

宮城県多賀城市には、古代の東北地方を治めるために作られた多賀城の遺跡がある。鎮守府および陸奥国府が置かれて、陸奥の中心地として栄えた。その多賀城には、高さ約2m、幅0.94m、厚さ0.4mで、壷の碑(いしぶみ)と呼ばれていた古碑がある。それは江戸時代に半ば土砂に埋もれて発見された。製作年代は天平宝字(西暦762年)12月1日とあり、芭蕉も見た有名な碑で、国の重要文化財に指定されて、大切に守られている。

 しかし、この壷の碑には謎が多い。まずなぜ「壷の」なのであろうか。次に、碑の最上部に西という文字が一字書かれている。確かに壷の碑は西向きに建てられてはいるが、東や南の碑は発見されていない。そのため、天平宝字よりずっと後の偽物であろうと、歴史学者たちは考えるようになってきた。そこで、壷の碑の名前に代えて単純に多賀城碑と呼ぶことに、宮城県と多賀城市では決めた。ところが、最近の歴史学者は180度方向転換して、碑の製作年代を天平宝字のものであると断定している。

 また、伝説を持つ志引石と呼ばれている畳み半畳より少し大きい程度の石がある。伝説によれば、志引石は二つに割れて、一つは沼に落ちたことになっている。

 秋坂教授(筆者、鉱物学)の調査によれば、多賀城碑と志引石の岩石は岩石学的には同じ種類であり、この地方としては珍しいものである。志引石を二倍にすれば、多賀城碑と似た大きさと形になることから、志引石は二つ目の壷の碑、すなわち南の碑を作ろうとしたとき割れて失敗したのだと、秋坂は信じている。志引石の下から出て来た木片の年代が分かれば、志引石の割れた年代が分かる。その年代こそ、多賀城碑の製作年代である。もし、その年代が西暦700年ごろと出れば、多賀城碑は日本三古碑の一つに確定する。

 陸奥国府の置かれていた多賀城を舞台に、秋坂教授の仮説を基にして、二つ目の壷の碑、南の碑の建設に携わった多賀城の人々と若い夫婦の悲劇を描いた考古学小説。

 


(1)

今年の夏は

雨が多くて暑い


(2)

ひえー

この酒は強いのう


(3)

やすけ、そろそろ帰ろうか


(4)

鮒とあやめが一緒に暮らしだした

 




 

 


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